https://www.youtube.com/watch?v=LeLzibcObVI
1000年に1度の大噴火2022/1/15/13:10日本時間 フンガトンガ フンガハアパイ島 日本から8000km トンガ 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ナビゲーションに移動検索に移動 トンガ王国 Puleʻanga Fakatuʻi ʻo Tonga(トンガ語) Kingdom of Tonga(英語) (国旗), 国章 国の標語:Ko e Otua mo Tonga ko hoku tofi'a (トンガ語: 神とトンガは私の遺産) 国歌:トンガ諸島の王の歌 公用語, トンガ語、英語 首都, ヌクアロファ 最大の都市, ヌクアロファ 政府 国王, トゥポウ6世 首相, シャオシ・ソヴァレニ(英語版) 面積 総計, 748km2(174位) 水面積率, 4.0% 人口 総計(2020年), 106,000 1 人(183位) 人口密度, 146.8 1 人/km2 GDP(自国通貨表示) 合計(2020年), 11億2900万 2 パアンガ(Pa'anga) GDP(MER) 合計(2020年), 4億9900万 2 ドル(182位) 1人あたり, 4978.802 2 ドル GDP(PPP) 合計(2020年), 6億2700万 2 ドル(183位) 1人あたり, 6259.049 2 ドル 独立 - 日付, イギリスから 1970年6月4日 通貨, パアンガ(Pa'anga)(TOP) 時間帯, UTC+13 (DST:なし) ISO 3166-1, TO / TON ccTLD, .to 国際電話番号, 676 トンガ王国(トンガおうこく、トンガ語: Puleʻanga Fakatuʻi ʻo Tonga)、通称トンガは、ポリネシアに位置する立憲君主制国家 3 4 。首都はトンガタプ島に位置するヌクアロファである 3 。 目次 1概要 2国名 3歴史 3.1近年の動き 4政治 4.1国王の一覧 5地方行政区分 6地理 6.1気候 6.2主な島 7交通 8経済 8.1カボチャ 8.2情報・通信 9軍事 10国民 11文化 11.1スポーツ 11.2特徴 11.3祝祭日 12脚注 13参考文献 14関連項目 15外部リンク 概要 編集 トンガは171の島からなる群島であり、そのうち45が居住地である 4 。 2021年現在、トンガの人口は104,494人で、その70%が本島のトンガタプ島に居住している 5 6 7 。国土は南北に約800km広がっている。北西にフィジーとウォリス・フツナ(フランス)、北東にサモア、西にニューカレドニア(フランス)とバヌアツ、東にニウエ(最も近い外国領)、南西にケルマディック諸島(ニュージーランド)に囲まれた国である。トンガはニュージーランドの北島から約1,800km離れている。 約2,500年前にラピタ族が最初に居住し、ポリネシア系住民が徐々にトンガ人としての明確で強力な民族的アイデンティティ、言語、文化を発展させた。彼らはいち早く南太平洋に強力な足場を築き、このトンガの拡張主義と植民地化の時代はトゥイ・トンガ帝国として知られた。トンガの初代国王であるアホエイトゥ (ʻAhoʻeitu) の統治により、トンガは地域の大国へと成長した。西はソロモン諸島の一部、ニューカレドニアとフィジー全域、東はサモアとニウエ、さらには現代のフランス領ポリネシアの一部まで、太平洋の未曾有の大地を征服し支配したタラソクラシーであった。トゥイ・トンガは太平洋における経済的、民族的、文化的覇権で有名になり、それは13世紀のサモア革命や1616年のヨーロッパ人による島々の外部発見後も強力なままであった 8 。 1900年から1970年まで、トンガはイギリスの保護国であった。イギリスは友好条約に基づき、トンガの外交を担当したがトンガはいかなる外国勢力にも主権を放棄しなかった。立法改革が最初の部分的代表選挙への道を開いた後の2010年、トンガは伝統的な絶対王政から脱却し完全な立憲君主制へと移行するための決定的な一歩を踏み出した。 国名 編集 正式名称は、Puleʻanga Fakatuʻi ʻo Tonga(トンガ語) 4 。 公式の英語表記は、Kingdom of Tonga。通称 Tonga。 日本語の表記は、トンガ王国。通称、トンガ。漢字表記は、湯加。 国名は、トンガ語で南の意味 4 。 歴史 編集 詳細は「トンガの歴史」を参照 考古学的な証拠から、トンガへの最初の植民者はサンタ・クルーズ諸島から船で来たことが分かっている。紀元前4000年頃から、元々東南アジアにいたオーストロネシア語を話す人々の祖先(ラピタ人)がポリネシアへ移住してきたが、トンガへの植民はこの動きの一部である。トンガは考古学的な年代推定から、BC800 - 750年前の独特のラピタ式土器が出土しているため、ポリネシアで一番古い遺跡として認められている。ラピタ人たちは1000年に渡り、現在はトンガ・サモア・フィジーとして知られている島々で生活し、航海し、戦争を行い、異なった種族間の結婚を行っていた。その後、より多くの探検者たちが東へ出発してマルキーズ諸島やタヒチ、最終的には太平洋の残りの島々を発見した。このことにより、人類学者たちはトンガ・サモアとフィジーをポリネシアの文化と文明の発祥地と評する。 トンガの航海カヌー 12世紀までに、トンガ人とトンガの大酋長、すなわちTu'i Tonga(神聖王)はニウエからティコピア島まで、太平洋中に知れ渡っていた。このことから、ただちにトンガ帝国と言及する歴史家もいる。もっと良い言い方としては、相互にやりとりを行う、航海者、首長、冒険者のネットワークというのが妥当であろう。15世紀と17世紀には、内戦が勃発した。オランダ人の探検家のウィレム・スホーテン(英語版) (Willem Schouten) とヤコブ・ルメール (Jacob Le Maire) が1616年にヨーロッパ人として初めてトンガに到着したのは、このような時期であった。他のヨーロッパ人の来航としては、もっとも重要なジェームズ・クックの1773年・1774年・1777年の到着、また最初のロンドンの使節の1797年の到着、メソジストのWalter Lawreyの1822年の到着が挙げられる。ジェームズ・クックの来航は、トンガがイギリス帝国 (大英帝国) の一地域として組み入れられる過程への決定的な第一歩となった。 近年の動き 編集 1984年 外貨獲得のためトンガのパスポート販売を合法化する国籍法が承認(88年に違憲判決)。以後政府関係者が売買利益で私腹を肥やしていると批判が高まる。 1985年 所得税率均一化と消費税導入案を政府が発表、同時期に政府に批判的なアキリシ・ポヒヴァ大学講師解雇事件が重なり、アキリシが新聞を創刊して民主化運動の嚆矢となる。 1991年 日本の無償資金協力によって建設中だったファアモツ国際空港のターミナルビルが完成した 10 。同年、ファタフェヒ・トゥイペレハケ(英語版)王子(タウファアハウ・トゥポウ4世の弟)が首相辞任(1965年就任)。前年の総選挙で当選したアキリシ・ポヒヴァ(英語版)らの民主派が1984年国籍法の改正を図るも否決、反発した民主派議員の呼びかけで大規模デモ発生。 1998年 11月2日、中国との国交を樹立した 3 。 2001年1月 ウルカララ王子が首相に就任。 2002年2月 政権に批判的な新聞への強権を行使するトンガ政府へニュージーランドが警告を発する。 2003年 政府と議会は反政府的な新聞の排除を企図して新聞条例を可決。首都ヌクアロファで大規模デモ。これを憂慮したニュージーランドが開発援助の見直しを示唆するも新聞条例は施行される。 2004年5月 国営航空会社ロイヤル・トンガ・エアライン倒産。観光業に打撃を受けて経済不況に突入。また国内線立て直しでツポウトア皇太子の経営する航空会社へ独占的に運行権を認めるかどうかでウルカララ内閣は対立、解任されたエドワーズ副首相代行(元警察大臣)ら3名が民主派へ合流した。 2005年1月 皇太子経営の電力会社の料金値上げに対し、値下げと国王退位を求めるデモが起こる。国王批判までに民主化運動がエスカレートする。 2005年7月 公務員によるストライキが発生。以後デモや放火事件、ストライキが散発的に発生。 2005年10月 民主化運動に対し、議会はツポウトア皇太子のいとこ・トゥイペレハケ王子を委員長として政治改革国民委員会を創設。政府による政治改革プラン策定に動く。 2006年2月 首相のウルカララ王子(タウファアハウ・トゥポウ4世の三男)が辞任。国王後継を争う第1王子ツポウトア皇太子の圧力があったとされる。後任は初の改革派民選首相となるフェレティ・セベレ。 2006年7月5日夜 アメリカ合衆国・カリフォルニア州の高速道路で、18歳の少女が運転する車が暴走し、同国のトンガ人コミュニティに向かっていたトゥイペレハケ王子夫妻と王室関係者が乗る車に激突。暴走車を運転していた少女は無事だったが、トゥイペレハケ王子 (en)、カイマナ妃、運転手、ほか同乗の2名の王室関係者が死亡。王子は王族出身ながら民主化促進の立場をとったため、民主化運動による国内対立を仲介を期待できる唯一の人物とみられていた 11 。 2006年9月 タウファアハウ・トゥポウ4世が89歳で死去。第1王子のツポウトア皇太子が王位を継承(ジョージ・トゥポウ5世)。 2006年11月16日 改革案が閣議で可決されるもデモ隊の一部が暴徒と化し暴動に発展。死者7名。(ヌクアロファ事件) 2006年11月17日 ジョージ・トゥポウ5世が戒厳令を発令。鎮圧の為にオーストラリアとニュージーランドに軍の派遣を要請する。 2007年1月 ヌクアロファ事件の扇動罪でポヒヴァやエドワーズを含む5名の民選議員が逮捕、起訴される。 2007年4月 戒厳令一部解除、首都では継続される。 2008年8月 動乱により延期されていたジョージ・トゥポウ5世の戴冠式を挙行。 2009年5月 ヌクアロファ事件の扇動罪で起訴されていた民選議員が無罪となる。(エドワーズ議員のみ裁判が延期され2010年取下げ) 2010年12月 民選派は政府に融和的になったポヒヴァへの反発で結束が緩み、トゥイヴァカノ貴族議員が国会で選出された初めての首相に就任 3 。 2012年3月 ジョージ・トゥポウ5世死去。トゥポウトア・ラバカ王太子(前述の元首相ウルカララ王子)がトゥポウ6世として即位。 2014年11月 アキリシ・ポヒヴァが首相に就任 3 。 2015年7月4日 トゥポウ6世の戴冠式を挙行。 2022年1月15日 フンガ・トンガ-フンガ・ハアパイで大規模な噴火が発生し、首都のヌクアロファなどに津波が押し寄せた 12 。